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赤痢菌を発見した世界的な細菌学者である志賀潔博士は、1946年東京空襲を避けるため坂元村磯浜の別荘に疎開して以来、山元町民として晩年を過ごしました。
志賀潔博士は、1870(明治3)年12月、仙台市生まれ、幼名直吉(なおきち)。父の佐藤信(さとうまこと)は、仙台藩主の大番士で若年寄御物書を務めていました。幼少期に、母の実家で伊達家の藩医の家系である志賀家の養子となり、名を潔と改めます。
仙台育才小学校(現片平丁小学校)から宮城中学校(現仙台第一高等学校)に進み、その後大学予備門から東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)に入学。1896(明治29)年、同大学卒業後、伝染病研究所に入り北里柴三郎に師事しました。北里所長から直接、細菌学と免疫学の研究の手解きを受け、当時国内で猛威を振るっていた赤痢の原因菌究明を任された志賀博士は、1897(明治30)年、27歳で赤痢菌を発見。初めて赤痢菌発見に関する研究を発表しました。
1901(明治34)年にはドイツに留学。フランクフルトの実験治療研究所のパウル・エールリッヒに師事し、化学療法の研究にいそしみました。1904(明治37)年には、エールリッヒと共著で「トリパノゾーマ病の色素治療試験」を発表し、化学療法の最初の報告として注目されました。さらに結核の化学療法の研究でも大きな業績を残しました。1920(大正9)年には、慶応義塾大学医学部教授に就任。その後、日本統治下の朝鮮に渡り、朝鮮総督府医院長、京城帝国大学総長などを歴任。1931(昭和6)年に帰国し、北里研究所顧問となりました。以来、1945(昭和20)年まで同研究所で細菌学の研究を続けました。
志賀博士は著書の中で自身の研究生活は幸運だったと語っています。北里とエールリッヒの二人の師に出会えたこと、また、東京で大流行していた赤痢が欧米では流行しておらず、研究に着手されていなかったこと、赤痢の研究は本来なら先輩が行うはずだったが、偶然にもその先輩は留学することが決まっていて、志賀博士に指示があったことなど、確かに幸運に恵まれたようにみえます。しかし、志賀博士の偉業は、これらの幸運に加えて、器用で粘り強く、飽くなき探求心を持ち合わせていたからこそ、成し遂げられたのであろうと考えられます。
磯浜の別荘は、坂元村の開業医であった田原廣医師との縁で建てられました。
田原家は、仙台で開業医をしていた志賀家に住み込みの修業をしていたことがあり、その関係から両家のつながりがあったそうです。志賀博士には4男4女の子がおり、夏休みをどう過ごさせるかが悩みの種でした。1915(大正4)年のお盆に、田原医師に案内された坂元村磯浜の美しい海岸と大海原の絶景をとても気に入り、故郷である仙台に近く、子どもたちも遊ばせられると考え、その翌年(大正5年)に別荘を建てたのです。
その後は、毎夏、家族で別荘を訪れるようになり、志賀博士は、磯浜の地を理想郷に見立て「無可有之郷(むかうのきょう)」と呼び、別荘を「貴洋翠荘(きようすいそう)」と名付けました。
文化勲章を授与された1944(昭和19)年、妻の市子を病気で亡くし、その翌月には船の事故で長男を亡くしました。74歳となった1945(昭和20)年に、戦火を逃れて仙台に疎開。同年、東京大空襲で東京の住居の家財一切を失い、磯浜の別荘に居を移します。さらに不運は続き、医学の道を進んでいた三男を1949(昭和24)年に結核で亡くしました。磯浜の住居には次男家族と共に暮らし、豊かな自然の中で、穏やかな余生を過ごしました。4畳半の居室から、庭のウメモドキに集まる鳥や眼下に広がる海原を眺めながら、読書や執筆をして過ごし、1957(昭和32)年、86歳で永眠されました。
山元町の磯浜で永眠した志賀潔博士に関する資料は、町内に所在する山元町歴史民俗資料館で保管・展示中です。
西暦 |
年号 |
年齢 |
出来事(※1) |
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― |
明治3 |
― |
旧暦明治3年12月18日(※2)、佐藤信の第8子(五男)として、仙台市谷地小路(現在東7番丁85)に生まれる。幼名直吉。 |
1878 |
明治11 |
7 |
母千代の実家志賀家に養子として入籍、潔と改名。 |
1882 |
明治15 |
11 |
宮城中学(のちの仙台第一中学校)に入学。 |
1887 |
明治20 |
16 |
大学予備門(第一高等中学、のちの一高)入学。 |
1892 |
明治25 |
21 |
東京帝国大学医科大学入学。 |
1896 |
明治29 |
25 |
12月、同大学卒業。伝染病研究所に入り、北里柴三郎に師事。 |
1897 |
明治30 |
26 |
11月、赤痢菌発見に関する最初の報告を発表。 |
1899 |
明治32 |
28 |
内務省技師、伝染病研究所第一部長就任。 |
1901 |
明治34 |
30 |
4月、ドイツ留学。 |
1904 |
明治37 |
33 |
エールリッヒと共著で「トリパノゾーマ病の色素治療試験」を発表、化学療法の最初の報告として注目される。 |
1905 |
明治38 |
34 |
1月、帰国。7月、医学博士の学位を取得。 |
1907 |
明治40 |
36 |
イギリス王立熱帯病学会名誉会員となる。 |
1908 |
明治41 |
37 |
パリのパストゥル研究所賛助会員となる。 |
1912 |
明治45 |
41 |
3月、渡欧。ローマにおける万国医学会総会に日本代表として出席。その後ドイツに入り、フランクフルトで再びエールリッヒに師事する。がん・結核の研究をする。 |
1913 |
大正2 |
42 |
6月、帰国。 |
1915 |
大正4 |
44 |
北里研究所創立と共に第四部長に就任。 |
1916 |
大正5 |
45 |
宮城県亘理郡坂元村磯浜に別荘を建てる。 |
1920 |
大正9 |
49 |
4月、慶應義塾大学医学部教授に就任。 |
1926 |
大正15 |
55 |
京城帝国大学創立にあたり、同大学医学部教授に就任。 |
1927 |
昭和2 |
56 |
ウイーン細菌学会特別会員となる。 |
1929 |
昭和4 |
58 |
京城帝国大学総長就任。 |
1931 |
昭和6 |
60 |
6月16日、北里柴三郎没す。 |
1936 |
昭和11 |
65 |
ハーバード大学創立三百年記念祭に招待され、同大学名誉博士の称号を得る。 |
1944 |
昭和19 |
73 |
文化勲章拝受。 |
1945 |
昭和20 |
74 |
3月、仙台に疎開。5月の東京大空襲により家財一切を失う。 |
1948 |
昭和23 |
77 |
帝国(のち、日本)学士院会員となる。 |
1949 |
昭和24 |
78 |
第一回仙台市名誉市民に選ばれる。 |
1952 |
昭和27 |
81 |
11月、非定型性肺炎にかかり、聖路加病院に入院。12月末日、退院。 |
1957 | 昭和32 | 86 | 1月25日、貴洋翠荘にて死去。正三位に叙せられ、勲一等瑞宝章を受ける。 1月29日、仙台市で市民葬が行われる。 |
1964 |
昭和39 |
|
第一回山元町名誉町民に選ばれる。 |
※1 年譜参考文献 バイエル ブックレット シリーズ37 『人間 志賀 潔を語る』 1996年
※2 現在の暦(太陽暦)に変換した場合、1871年2月7日